円安を放置する製造業の管理職が削る寿命
このニュースで得をするのは誰か。感情論や外交辞令をすべて脇に置き、まずは冷徹に損得の帳簿をつけてみたい。日本の製造業で事業計画や開発の数字に触れている人、あるいは為替の乱高下に一喜一憂するビジネスパーソンなら、政治家の強い言葉の裏で「どの口座からどの口座へ金が動かされようとしているのか」を直視する必要がある。
トランプ前大統領が「円安は米国にとって災難だ」と発言し、日本の通貨安政策とそれに対する8カ月間の不作為を批判した。さらにその圧力は、単なる為替介入の要求にとどまらず、防衛費の大幅な増額要求へと地続きでつながっている。
誰のポケットが潤い、誰が痩せ細るのか
帳簿の左側、つまり得をする側から見ていく。表面的には「円安で苦しむ米国の輸出企業」が得をするように見えるが、真の受益者はそこではない。最も直接的なキャッシュフローの改善を見込んでいるのは、米国の防衛産業と、連邦政府の歳入を補填したい政策決定者たちだ。
為替を批判された側が通貨を切り上げられないとき、歴史的に差し出してきたのは「現物の購入」である。特に防衛装備品や液化天然ガス(LNG)といった巨額のドル建て契約だ。これらが日本側の国家予算から支出されれば、米国の主要防衛コントラクターには数兆円規模のバックログ(受注残高)が積み上がり、米国内の工場稼働率と雇用が保証される。
一方で損をするのは、防衛費増額の財源として増税や社会保障費の圧縮を強いられる日本の家計であり、輸入原材料の高騰を価格転嫁しきれない国内向けの中小サプライヤーだ。日本の大手輸出企業は一見すると円安の恩恵を享受しているように見えるが、後述するように、これは競争力の向上を伴わない「寿命の前借り」に過ぎない。
帳簿の辻褄が合わない「8カ月の空白」
疑問に思うべきは、なぜ今この発言が出てきたのかという点だ。円安自体は何年も前から続いており、条件そのものは昨日今日始まった話ではない。
米国側の制約を見ると、この揺さぶりの動機が逆算できる。現在の米国はインフレ圧力が根強く残っており、単純に急速なドル安へ誘導すれば国内の物価高が再燃して政権の基盤を揺るがす。つまり、本気でドル安・円高を望んでいるわけではないのだ。真の狙いは為替の是正そのものではなく、日本が円高に誘導できない弱みを突いて、財政的な代償を支払わせることにある。
日本側は金利を急激に上げられない。国債の利払い費が急膨張し、国内金融機関のバランスシートを傷めるからだ。この身動きが取れない「8カ月の不作為」を見透かした上で、為替の不均衡を理由にペナルティを科す。そのペナルティの着地点が、防衛費の国内総生産(GDP)比2%への早期前倒しと、米国製装備のバイ・アメリカン(米国製品優先購入)枠の拡大である。通貨の帳尻が合わない分を、軍事予算という別の勘定科目で相殺させる構造が見えてくる。
現場から見える「偽りの競争力」
自動車のシステム開発や製品企画の現場に身を置いていると、この「円安という下駄」がいかに組織の感覚を麻痺させるかを日常的に突きつけられる。
本来なら、徹底的なアーキテクチャの共通化や、顧客が対価を払う本質的な機能への絞り込みによって削るべきコストが、1ドル150円台という為替差益によって見えなくなってしまう。性能指標のわずかな差を社内で競い合い、顧客の生活を見ていない自己満足の仕様を盛り込んでも、決算上は巨額の営業利益として計上される。帳簿の数字は潤っているが、物理的な製品の競争力は確実に削がれている。この偽りの猶予期間を作り出している構造そのものが、外圧という形でいよいよ回収されようとしている。
観測される仮説と、それが覆る分岐点
この力学について、私は次のような仮説を立てている。
仮説:米国による円安批判は、実質的な為替協定の締結を目的としたものではなく、日本の防衛費増額と米国製軍需品の長期調達契約を引き出すための外交的レバレッジ(梃子)として機能し、最終的に防衛調達枠の拡大という形で決着する。
この見立ての確度は70%程度とみている。この仮説が崩れるのは、米財務省が日本を公式に為替操作国に再指定し、日本銀行に対して防衛問題とは完全に切り離された形で、月次の利上げペースや為替介入枠の義務化を明文化した合意を迫ったときだ。もし防衛費の議論が立ち消えになり、純粋な通貨協議のみが厳罰を伴って進むのであれば、私の「代償のすり替え」という読みは間違いだったことになる。
私たちはどの列の数字を監視すべきか
この帳簿の構造を前にして、ビジネスパーソンが取るべき行動はシンプルだ。
第一に、日米首脳会談や通商協議のニュースを追う際、為替に関する非難声明そのものではなく、「日本政府の防衛予算における対外有償軍事援助(FMS)の契約金額」を四半期ごとに確認することだ。為替の批判が強まるタイミングと、米国からの高額装備品の調達承認が下りるタイミングが連動しているなら、この帳簿は想定通りに機能している。
第二に、自社の事業計画において、為替レートを1ドル130円まで引き戻した状態での損益分岐点を再計算することだ。外圧によって防衛費の請求書が回ってくる一方で、政治的な手打ちとして突発的な円高誘導が容認されるリスクは常に存在する。現在の利益が「技術や仕組みの優位性」によるものなのか、単に「政治の空白が生んだ為替の歪み」に乗っかっているだけなのか。自社の原価構成を洗い出し、下駄を脱いでも成立する骨格を今のうちに作っておく必要がある。
参考: 「円安で苦しい」トランプ発言招いた8カ月の不作為次の壁は防衛費 | 日本経済新聞 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN30C5O0Q6A930C2000000/